愛猫家の皆さん、猫はどこの子でも可愛いですが、でもやっぱり一番可愛いのは自分ちの子だと思っていませんか。そんな風に思っているのはあなただけではありません。
平安時代の天皇でさえも、「僕が飼っている猫はすっごくカワイイんだよ~」と日記に書き残しているのです。
平安時代前期を生きた宇多天皇(うだてんのう)は「宇多天皇御記」という日記の中で、自分の飼っている黒猫の様子を事細かに書き記しています。自分の猫を自慢しノロケながらも照れ隠しのような言い訳もする「猫好きのツンデレ天皇」に、きっとあなたも親近感が湧くでしょう。
「宇多天皇御記」は日本での初期の飼い猫記録
宇多天皇は平安時代の前期、867年に生まれました。父は仁明天皇の息子であり、後に光孝天皇となられる方です。母は桓武天皇の孫娘にあたります。そして生まれた当時の天皇、清和天皇とは従兄弟の関係でした。
宇多天皇は抜群の血筋の皇族として生まれているのです。しかしいろいろな出来事があって、一度は皇族を離れ「源定省(みなもとのさだみ)」と名乗ったこともありました。
もしかすると「宇多天皇」の名前は、日本史の授業などでもあまり聞き覚えがないかもしれません。ただ、あの菅原道真の実力を認めて政治の中枢に抜擢した人と言えばわかりやすいでしょう。
彼は21歳の時、父親の光孝天皇の跡を継いで宇多天皇として即位しました。そして現存する天皇の日記としては一番最初の「宇多天皇御記(うだてんのうぎょき)」を書きました。「寛平御記(かんぴょうぎょき)」と呼ばれることもあります。
この日記は単にプライベートな日記だったわけではなく、業務上の連絡事項や当時の政治的な出来事などを後世に伝えるための公のものでもありました。10巻あったとされていますが、現在は1巻も残ってはいません。
現在知ることができるのは後世の文献などで引用されて残っていた、部分的な内容だけになります。そこにはもちろん、政治的な事件などの固い話題も書かれています。
ただそれに紛れて、宇多天皇自身が飼っていた黒猫のことがいろいろと書かれているのです。この日記は日本での飼い猫の記録としても初期のものであり、とても貴重なものになっています。
猫が日本に渡ってきたのは奈良時代とされていますが、平安時代になってもまだ貴族しか飼えないような高価な動物でした。猫は外で放し飼いにしたりせず、綱につないで大切に飼われる動物だったのです。
そしてそんな大切な愛猫の様子を、宇多天皇は日記に残しています。
宇多天皇の残した貴重な「愛猫日記」
さて宇多天皇は、日記の中で自分の愛猫についてなんと言っていたのでしょう。889年12月(2月ともあり)6日に、次のような話が出てきます。
このような前置きがあって、黒猫がどうして自分のところへやってきたか、黒猫の姿や仕草のことなどを細かく書いています。
それによるとこの黒猫は、父である先帝「光孝天皇」から譲られました。元々は宇多天皇のいとこにあたる「源精(みなもとのくわし)」が、赴任先のだった太宰府での任期を終えて帰るときに一緒に連れてきたものでした。
都に戻ると、黒猫は時の天皇である光孝天皇に献上されます。光孝天皇が数日かわいがった後で、息子である宇多天皇はその猫を譲り受けることになったのです。
日記の記述の中には「5年間、毎朝ミルク粥をあげてかわいがっている」とあります。すると猫を飼い始めたのは884年、宇多天皇(まだ天皇にはなっていません)は17、8歳だったのではないでしょうか。
皇族として生まれた宇多天皇でしたが、実はこの時期、一度皇族を離れています。血筋も良く、なおかつ聡明で将来は出世の可能性も高いと思われていたのに、突然、時代の波に翻弄され「臣籍降下(皇族がその身分を離れること)」することになったのです。
宇多天皇の人生については、また後で述べましょう。この猫を譲り受けたのは、様々な出来事が起きて皇族の身分を離れたすぐ後だったことだけ、心の片隅に置いておいてください。多感な時期の青年にとって、この猫は唯一自分を癒してくれる存在だったのかもしれません。
愛猫をベタ褒め、宇多天皇の自慢とノロケ
宇多天皇は日記の中で、愛猫の姿やしぐさなどを細かく記しています。そして、そんな愛猫のあらゆることをベタ褒めしているのです。
この時代の日本にいた猫は、黒猫といっても浅黒い毛色が多かったようです。でも宇多天皇の黒猫は墨のように真っ黒だったようで、中国の春秋時代の伝説的な黒い名犬「韓廬」にも似ていると自慢しています。
うずくまるとまん丸で足と尾は見えなくなり、まるで黒い宝石だ。歩いても足音なんて聞こえず、雲の上の黒竜みたいだ。他の動物に似ているところもあるし、よく頭を低くして尾を地面につけていたりする。そして背筋を伸ばすと60cmくらいにもなる。
毛色がツヤツヤで美しいのは、このような動作をするからそう見えるのだろうか。ネズミを捕るのも、他の猫なんかより素早くて上手だ。
と、だいたいこのようなことを日記に書いています。体長や背丈、伸びをしたときの長さなどは、今の猫とも変わらないようですね。
宇多天皇は毎朝「乳粥」を猫に与えていると書いています。「乳粥」とはお米を牛乳で煮込んだお粥です。「お米を牛乳で煮る」ということにあまり納得いかないかもしれませんが、この時代にこの食事はとても貴重で高価なものでした。
牛乳は現代のように簡単に手に入るものではなく医療を担当する役所が管理していたため、欲しければ役所の手続きを経なくてはいけません。お米だって、庶民は毎日食べることなんてできなかったでしょう。そのように高価なものを、宇多天皇は毎朝猫に与えていたのです。
突然の塩対応、ちょっと照れ屋さんのツンデレ天皇
このように猫をかわいがり(甘やかし?)、しぐさの一つ一つを褒め称えていた宇多天皇ですが、突然こんなことを言い出します。
ここまであまりにノロケていたので、照れ隠しでしょうか。この日記を書いている時点で、宇多天皇は21、2歳。こんなことを言っては失礼ですが、、、宇多天皇もカワイイですよね。
このような日記の記述から、猫好きのあいだで宇多天皇は「猫好きのツンデレ天皇」として愛されているのです。
この後は次のように続きます。
ここは猫好きさんにとって、すごく共感できるのではないでしょうか。特に落ち込んでいるときに、言葉はなくても猫に慰めてもらったという経験のある人はいるでしょう。きっと今も昔も、猫と猫好きさんとの関係は変わらないのですね。
宇多天皇の生涯と猫
猫好きの宇多天皇に、親近感が湧いてきたという人も多いのではないでしょうか。そんな宇多天皇がどのような生涯を送ったのかについてもみておきましょう。
先ほども言ったように、皇族に生まれ幼い頃から聡明だった宇多天皇は将来も有望なはずでした。しかし884年に陽成天皇が退位した後、突然即位することになったのは当時すでに55歳になっていた宇多天皇の父、光孝天皇でした。
陽成天皇は素行に問題があったため退位させられたとされますが、どこまでが真実かはわかりません。光孝天皇としては自分の後の天皇は陽成天皇の弟が継ぐことになると思っていて、その意思を表すために、自分の子供たちは全て臣籍降下させました。
そのため宇多天皇も、突然、皇族を離れることになったのです。
その3年後の887年、光孝天皇が亡くなります。このとき関白であった藤原基経と陽成天皇の母親は、兄妹ではあるものの仲が悪いという関係でした。そのような人間関係のゴタゴタもあって、結局、宇多天皇は再度皇族に戻り天皇に即位することになったのです。
このとき宇多天皇は21歳でした。このように「皇族だった人間が一度臣籍に降り、その後また皇族になって天皇に即位する」といった例は他にはありません。非常に珍しいケースなのです。その激動の時期を、宇多天皇は黒猫と共に過ごしていたということになります。
天皇に即位した直後には、それまで政治の中枢にいた藤原基経と揉めます(阿衡事件)。このとき取り成してくれたのが菅原道真でした。藤原基経が亡くなった後、やっと宇多天皇の親政(天皇自ら政治を行うこと)が始まります。
菅原道真などを重用し、この時代にはあまり必要性がなくなっていた遣唐使を廃止します。他にもいろいろな改革が行われ、この治世は「寛平の治(かんぴょうのち)」と呼ばれました。歌合せなども盛んに行われ、日本独自の文化が発展していった時代でした。
897年、31歳のときに息子の醍醐天皇に譲位します。そして自分は仁和寺で出家し、法皇となりました。
譲位後の901年、菅原道真は突然、身に覚えのない罪で太宰府に左遷されることになります。このとき道真は宇多天皇に助けを求めました。宇多天皇も何とかしようと動いたのですが、結局何もできないままで道真は太宰府に流されてしまいました。
それから2年後に道真は亡くなり、その後の京都では不可解な出来事が相次ぎます。世の中では菅原道真の祟りだと恐れられ、道真の左遷に関わった人たちが謎の死を遂げていきました。
そんな中、宇多天皇は災いに巻き込まれることなく無事だったようです。やはり道真は、自分を引き立ててくれた宇多天皇に対して感謝の念を抱いていたのでしょうか。
それから28年後の931年、宇多天皇は65歳で亡くなりました。
宇多天皇と猫のどちらにとってもかけがえのない存在だったはず
若い頃にあの黒猫と出会って以降、宇多天皇はまた猫を飼ったりしたのでしょうか。残念ながら宇多天皇の書かれた日記で現代まで内容の残っているのはほんの一部のため、その後のことは何もわかりません。
それでもこのときの一人と一匹の出会いは、きっと互いの人生(猫生?)にとってもかけがえのないものになったでしょう。