カイコを守る養蚕農家が貼った猫絵の力。絵の猫でネズミを防ぐ!?

昔から、猫の特技と言えばネズミ退治でしょう。キャットフードをもらっている最近の飼い猫ちゃんにはちょっと難しいかもしれませんが、大昔から世界中で、猫はネズミの害を防いでくれるとして重宝されてきました。

けれど昔は今より猫の数が少なく、猫は高値で取引される貴重品でした。そのため江戸時代には、猫の絵を貼っておけばネズミの害を防げるとして「猫絵」が人気だったのです。

そんな嘘のようなホントの話、もっと詳しくみていきましょう。

昔、養蚕農家では猫を飼うことが勧められた

人間と猫との交流が始まった古代エジプトの時代から、猫はネズミの天敵として活躍していました。貯蔵した作物をネズミの被害から守ることで、猫はただ人間に「飼われる」だけではなくネズミ捕りの名手として地位を築いてきたのです。

日本に猫がやってきたのも、中国から渡来した仏教経典をネズミの害から守るためでした。歴史を振り返ってみても、猫の数が減るとネズミが増加してしまい、それと共にいろいろな問題が発生しています。

そして養蚕農家にとってもネズミは大敵とされます。養蚕農家はカイコを飼って、その繭から生糸を作っています。カイコは「お蚕さま」とも呼ばれるほどに大切に育てられているのですが、ネズミはそんなカイコをあっという間に食い荒らしてしまうのです。

いったんネズミの害にあうと、その被害額は相当なものになってしまいます。ですからそんなネズミの害を防ぐために、天敵である猫を飼うと良いと勧められていました。

高価な猫を飼う代わりに「猫絵」を貼った

日本に養蚕が伝わったのは弥生時代とされますが、特に盛んに行われるようになったのは江戸時代の後半になってからです。この時代には日本全国で養蚕が行われていました。

大切なカイコをネズミから守るためにも養蚕農家では猫を飼うことが勧められていましたが、一般の農家で猫を飼っているところはまだあまりありませんでした。実は江戸時代には、猫は高価な動物だったのです。

今のように猫の飼育数は多くなく、貴重品でした。馬一頭が一両くらいだったとされるこの時代に、養蚕が盛んな岩手県盛岡市あたりで猫一匹が五両したという記録も残っているのです。

さらにネズミが大量発生した年には、猫の値段も上がってしまいました。とある年、愛知県、岐阜県辺りでネズミが大量発生したことがありました。そのときネズミ退治が得意な猫は、七両二分にまで値上がったというのです。

こうなると、一般的な養蚕農家ではなかなか飼うことができないでしょう。でも大切なカイコを、ネズミの被害なんかにあわせるわけにはいきません。

そこで養蚕農家の人気を集めたものが、猫の姿が描かれた「猫絵」でした。猫絵を貼っておくだけでネズミが寄り付かなくとして、猫を飼うことのできない養蚕農家の多くがこの猫絵を買い求めたのです。そして猫絵は蚕室に貼られました。

この猫絵には様々なものがありました。墨で簡単に描いたものもあれば、浮世絵師が描いた美しく豪華なものもありました。養蚕業が盛んになった江戸時代後半には猫絵も多く出回り、また猫絵を専門に描く絵師もいました。

猫絵は養蚕農家だけでなく、ネズミの害に困っていた江戸の町家などでも買われていました。実際にこの絵を貼っておくとネズミの害が減るとして、評判も良かったようです。このような習慣は昭和時代の初期まで続いたとされます。

猫絵を描く有名な猫絵師もいた

ネズミの害を防ぐための猫絵は、特に養蚕の盛んな地方で流行しました。群馬県、埼玉県、長野県、新潟県などです。そして江戸の街にも猫絵を描く絵師がいて、頼まれると代金をもらって描くといったことが行われていました。

今でも名前の残っている絵師には次のような人がいます。

雲友、白仙

どちらも江戸時代後半、江戸の街にいた絵師です。

雲友は常陸(現在の茨城県)出身とされ、この時代に人気だった美人画や役者絵などではなく主に猫の絵を描き、売り歩いて旅をしていたようです。

雲友の時代から二十年ほど経った頃、今度は白仙という旅の絵師が現れます。猫やトラの絵を描いていたのですが、彼の絵はネズミ除けの効果があるとして評判が高く、上野にあった茶屋の壁にトラの絵を描いたこともあるそうです。

残念なことに、二人の描いた絵はもう現在は残っていないそうです。どんな絵だったのか、見てみたいものです。

猫絵の殿様

江戸時代の後半、上野国新田郡(現在の群馬県太田市)を治めていた岩松の殿様も猫絵を描いていました。岩松氏の十八代当主から二十一代当主までは「猫絵の殿様」と呼ばれ、描かれた猫絵はネズミの害を防ぐ効果も高いとして人気でした。

岩松氏の猫絵の殿様

  • 十八代当主 岩松義寄(よしより)(温純(あつずみ)とも言われる)
  • 十九代当主 岩松徳純(よしずみ)
  • 二十代当主 岩松道純(みちずみ)
  • 二十一代当主 岩松俊純(としずみ)

岩松氏は名門の新田氏と足利氏の血を受け継ぐ家柄です。由緒正しい家柄ではあるものの領地はあまり大きくはなく、禄高は多くありませんでした。

ただ岩松の殿様には、領主であると共に宗教的な役割もあったようです。屋敷内には様々な神様が勧請されていました。幕末期には屋敷内にお参りに訪れる人々も多くいたとされます。

岩松の殿様への絵の依頼は以前からあり、観音様や大黒様、龍、富士山など様々なものを描いていました。殿様の描く絵には疱瘡(天然痘)や狐憑き(狐の霊がとり憑いて精神的異常をきたすこと)、疫病などを除ける力があるとも信じられていたのです。

さらには殿様の草履にも狐の霊を放つ呪力があると信じられていました。そのため、殿様の草履が狐憑き除けとして与えられることもありました。

猫絵の依頼は1790年代頃から増えたとされます。岩松の殿様の描く猫絵にはネズミ除けの効果があると信仰されて、養蚕業が盛んな群馬県、埼玉県、長野県などではよく知られていました。

蚕の卵を売っていた業者が猫絵を求めたこともあり、そのような業者が各地の養蚕農家に猫絵を普及させたとも考えられます。

とある資料によると、十九代当主の岩松徳純は1813年の9月から10月に善光寺参詣のため信州を旅しました。その際に沿道の人々から絵を求められて、約1ヶ月間に猫絵などを全部で307枚も描いたとされています。

そんな岩松の殿様の猫絵の効果は、明治時代になっても信仰されていました。蚕の卵をヨーロッパへ輸出する際には、猫絵も一緒に入れられていたのです。それによって猫絵はヨーロッパでも知られるようになりました。

最後の猫絵の殿様、新田俊純はヨーロッパでは「バロン・キャット(猫の男爵)」と呼ばれ親しまれました。ちなみにこの俊純は小説「猫男爵ーバロン・キャット(神坂次郎著)」の主人公です。興味のある方は読んでみてください。

「岩松俊純」は明治維新後は「新田俊純」と名乗り、また男爵を叙されています。実は岩松氏は以前から新田姓を名乗りたかったものの、幕府から許されなかった歴史があります。明治維新後にやっと新田姓を許され、新田俊純となりました。

なお猫絵の殿様が描いた直筆の猫絵は、現在も残っています。

歌川国芳

歌川国芳(1798ー1861年)は江戸時代の浮世絵師で、猫好きで有名でした。浮世絵の美人画には脇役として猫が描かれることもありましたが、国芳は猫を主役にした絵を残しています。隠号にも「猫」の文字が入ったものが使われています。

もちろん猫も飼っていました。家には亡くなってしまった猫たちの位牌が並べられていて、また全ての猫を両国の「回向院」に葬っていました。回向院は江戸時代からペットを葬る人が多く、猫にまつわる伝説も残るお寺です。鼠小僧次郎吉のお墓もあります。

国芳の描いた猫の絵として有名なものに「猫飼好五十三疋」があります。これは東海道の53の宿場(東海道五十三次)の宿場名を猫と引っ掛けたものです。語呂に合わせたいろいろな猫が描かれています。

ネズミ除けのための猫絵としても信頼されていて、生きているかのような猫が描かれているおかげでネズミが寄り付かないとして人気でした。さらに弟子に絵を教えるときにも、まずは猫を写生することから始めたそうです。

猫好きにとっては、ちょっと気になる浮世絵師ですね。猫が大好きだったというだけで、親近感が湧きます。

猫絵の歴史は深く、おもしろい

このように養蚕業が盛んになった江戸時代後半、ネズミの被害を防ぐための猫絵があちこちで描かれました。ネズミは、大切に育てたカイコをあっという間にダメにしてしまいます。ネズミ害は養蚕農家にとって大問題だったのです。

養蚕は中国から伝わってきていますが、中国の養蚕農家でも猫を飼うと良いとされ、まじないとして泥で作った猫の人形を供えたりといったことが行われていたようです。

猫絵には現在も残っているものがあります。この時代の養蚕農家に想いを馳せながら猫絵を見ると、さらにその意味が深く感じられるかもしれません。

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