現在では飼い猫や野良猫を含め、日本中いたるところで猫を見かけることが出来ます。
しかし日本人と猫との付き合いの歴史をさかのぼると、いたるところに猫がいる風景は近年になってからのものであり、かつては猫が貴重な動物であったことが知られています。
最初に日本へイエネコがやってきたのは、奈良時代と言われています。
江戸時代初期までは猫は貴重な存在であり、猫の数が増え始めたのは江戸時代の後半と考えられています。その頃にようやく、猫が一般の人々にも馴染みのある存在となったようです。
猫が日本にやってきた歴史をたどってみましょう。
石器時代や弥生時代には猫がいた?日本にいた猫と中国からきた猫の話
世界中で親しまれているイエネコが日本にやってくる前の時代、古代の日本には猫はまったくいなかったのでしょうか。
日本の文明が築かれる以前、石器時代にはヤマネコがすでに生息していたようです。
日本固有種のツシマヤマネコとイリオモテヤマネコ
イエネコがやってくる前の日本には、イリオモテヤマネコとツシマヤマネコが生息していました。
そのため、現在でもこれらの日本のヤマネコとイエネコの交配種は発見されていません。
ベンガルのようにイエネコとベンガルヤマネコの交配種もいますのが、ベンガルは人為的に交配し誕生した猫のため、自然の状態での交配は難しいのかもしれません。
石器時代頃にはヤマネコは存在していた
ツシマヤマネコは10万年前、イリオモテヤマネコは20万年前ほど前に大陸側からやってきたのではないかと考えられています。
現在は対馬も西表島も島ですが、この猫達がやってきた時代は氷期であったために、海面が下がり現在の中国大陸と日本列島は陸続きであったため、大陸からヤマネコが移動してきたのです。
氷期になると海や川へ流れ込む水が氷になって陸地に留まってしまう為、海面が下がると考えられています。
その頃の日本人は、石器で動物を追いかけて暮らしていました。ヤマネコ以外にもゾウやシカなどの動物が大陸から移動してきており、それを追いかける形で日本人の先祖達が日本列島にやってきたと考えられています。
経典を守る役割をもって中国から猫がやってきた
イエネコはそれから数万年が経過してから日本にやってきます。一般的には奈良時代、仏教の伝来と共にその経典をネズミなどから守るために、船に乗ってやってきた猫達が定着したと言われています。
平安時代の文献には「唐猫」という言葉が登場します。上記の通り、日本にはすでにヤマネコが生息していましたから、ヤマネコと区別するために唐(昔の中国)からやってきた猫という意味で唐猫と呼んでいた可能性が考えられています。
弥生時代には猫がいた証拠が発見される
しかしこの歴史をひっくり返す発見が2014年に報道されました。
まだ遺跡は調査中でありますが、猫が弥生時代にも日本に存在していたとはいえ、現在のように全国的に猫がいたわけではなかったのでしょう。
それを示す証拠として、埴輪が上げられます。
このことから、古墳時代にはまだ猫は一般的な動物ではなかったと考えられています。
やがて6世紀になり、日本に仏教が伝来してきます。
その渡来人や貿易商の船に食料や書物をネズミから守るべく、猫が乗っていても不思議ではないでしょう。
ペットとして可愛がられたのは平安時代から
こうして、ついにイエネコが日本にやってきました。
平安時代になるとネズミ取りの役目の他に、愛玩動物つまりペットとしても可愛がられるようになります。
「枕草子」や「源氏物語」といった歴史的な書物の中に、猫がたびたび登場するのはこの時代からです。
「枕草子」では、猫を溺愛する一条天皇に「命婦のおとど」と名付けられ、位まで与えられた猫が登場します。
「源氏物語」では柏木と女三宮の出会いのきっかけをつくったのが猫でした。奈良時代に比べると、いかにペットとして可愛がられるようになったのかが伺えます。
しかし、まだ猫は貴重な存在でしたから平安時代の貴族たちは猫がいなくならないように、紐をつけて飼育していたようです。
江戸時代から猫が増え始め、庶民にもなじみのある動物になる。
14世紀に描かれた「石山寺縁起絵巻」という絵巻には、商人の家につながれた猫が描かれています。この家は猫を飼えるぐらい裕福な家であったと推測されます。
中世の日本では猫はつないで飼育するのが普通であったため、このように猫を繋いでいた為、猫の数がなかなか増えることがありませんでした。
江戸時代の初期のころまでは、猫はまだまだ希少な動物であったようです。猫が増え始めたのは、戦国時代から江戸時代にかけての時期と言われています。
まだこの時は猫は高価な動物であったので、猫の売買を禁止する法令も同時に出されていたものの、人々は猫が盗まれることを恐れて依然として猫を綱につないでいたようです。
猫の放し飼いに拍車をかけたのが、第五代将軍徳川綱吉による、かの有名な「生類憐みの令」といわれています。
猫だけでなく様々な動物の殺生を禁じたこの法令では、犬や猫を綱から解き放し放し飼いにするようにしたのです。
綱につながれなくなり、猫達は自由に外を駆け回れるようになりました。このような法令もあり、この時代から猫の数が増え始めたと考えられています。
ネズミよけの絵が販売された事も
猫の数が増えてきたとはいえ、ネズミの被害が大幅に無くなる事はありませんでした。
特に農家や養蚕業者などネズミの害に悩んでいた人々のために、猫の絵をネズミよけのまじない道具として売り出すものが現れ出しました。
「鼠よけの猫」歌川国芳作
天保12年(1841)頃
猫好きで知られる歌川国芳が描いた、鼠よけの効果があるという猫の絵です。
一勇斎とは歌川国芳の画号、今でいうとペンネームです。福川堂という版元から出されていることがわかります。
要約すると「この猫の絵に極めて優れた一勇斎の絵を家の中に貼っておくと、ネズミはこれを恐れて少なくなり、また出てもイタズラを決してしないとても優れた絵だ」とあります。
歌川国芳は江戸末期の浮世絵師ですが、猫の絵を鼠の被害から家を守る魔除けとして家の中に貼る風習は、明治時代に入っても続いていたそうです。
こうして猫は江戸時代後期には人々にも身近な存在となり、浮世絵や戯曲、物語など様々な文学作品にも登場するようになります。
愛らしい猫だけでなく、ねこまたなどの悪役としての猫や、人間に擬人化された猫などジャンルは沢山の種類に及びました。それだけ江戸時代の人々が、猫を身近な存在として愛したからでしょう。
外を自由に走り回る猫、というイメージが定着したのは江戸時代中頃~後期にかけてからと考えられています。
日本固有の猫「日本猫」とは
猫が日本にやってきて、なじみのある存在になるまでの歴史を追ってきました。奈良時代から江戸時代までの間に日本には外国からたびたび外国産の猫がもたらされました。
奈良時代以降、幾度も様々な猫との交配が進んだ結果、日本猫という品種が誕生したと考えられています。
しかし戦後は海外からやってきた外国産の猫との交配が進み、純粋な日本猫は絶滅寸前に追い込まれていると言われています。
純粋な日本猫の定義としては、毛が短い・毛並みが柔らかい・足がしっかりとして太い・丸顔・尻尾が短いなどの特徴が上げられます。
特に尻尾が短い猫は世界的に見ると珍しい様で、尻尾の短い猫がアメリカに送られそこで「ジャパニーズ・ボブテイル」という日本原産の品種として認められることになりました。
この猫の特徴は何といってもポンポンのような短い尻尾です。この尻尾は生まれつきであり、遺伝的な異常があってもたらされるものではなく健康な尻尾です。
▼ジャパニーズ・ボブテイルについての記事はこちら
ジャパニーズボブテイルの特徴と性格。意外な日本猫との違いに驚き!
かつて、尻尾の長い猫は嫌われた?
それにしてもなぜ、かつての日本の猫は尻尾が短い猫が多かったのでしょうか。
これにはいくつかの説があります。
その他、長い尻尾が蛇に連想させて嫌われた、長い尻尾に火が引火して家が火事になったなどの説があります。
そのために昔の日本では、尻尾の短い猫が好まれたと考えられています。
猫は古代から人間のそばで進化をしてきた
ネズミから人間の財産を守るためにやってきた猫は、その役割が薄れた現代でも多くの人々に可愛がられています。人間の生活に密着するようにして、猫は世界中に広がっていきました。
だからこそ、多くの問題も起こっています。猫の殺処分や野生化した猫の他の動物への影響など、解決しなければならない問題もあります。
千年以上前、海を越えて日本にやってきた猫達に日本という国はどのように映ったでしょうか。
猫が日本に来なければ、生まれなかった文化や作品も多かったでしょう。今日のネコブームもなかったはずです。
かつては貴重だった猫は数百年かけて、身近な動物へと変わっていきました。現在では猫を単なる動物ではなく、大事な家族として考える人も多くなっています。
これからも、日本人と猫との様々な猫の姿が見られることでしょう。