人類初の宇宙飛行士ユーリイ・ガガーリンは「Поехали!(さあ行こう)」の言葉と共に地球を飛び立ち、宇宙から地球を見下ろす初めての人類として「空は非常に暗く、地球は青かった」という言葉を残しました。
その猫は、いつも見上げている空の向こうに宇宙があるだなんて考えたこともなかったでしょう。密閉されたカプセルの中からは暗い宇宙も青い地球も見ることはなかった筈です。
人類はハエから始まり犬やサルを経て人間に至るまで様々な生き物を宇宙に送り出してきましたが、その中には1頭の小さな雌猫が含まれていたことはあまり知られていないようです。
これは今から50年以上も前に、世界で初めて宇宙へ行ったただ一匹の猫、フェリセットのお話です。
宇宙開発の歴史を簡単におさらい
何故、猫が宇宙に行かなければならなかったのか。状況を理解するためにまずはちょっとだけ、猫の出てこない宇宙開発のお話にお付き合いください。
宇宙開発の歴史は意外に古く、今から100年前の1920年ごろにはロシア、アメリカ、ドイツなどの国でロケットの研究が始められました。
当時、最も先頭にいたのはドイツです。時局はまさに第二次世界大戦直前、軍部の主導で研究を推し進め、1934年には世界初の弾道ミサイルV2ロケットを開発しました。
しかしドイツの敗色が濃厚になると研究者らはアメリカに投降して技術を提供、ドイツが敗戦した後はロシア(当時はソ連)やアメリカがこぞってV2ロケットの資料を集め始めます。そうして米ソ対立の冷戦時代に突入していく中で両国は更に宇宙開発でしのぎを削りあうことになるのです。
有人飛行を目指し、最初に動物を宇宙に打ち上げたのはアメリカでした。1947年にまずはハエを、2年後にはサルをドイツから得たV2ロケットで打ち上げています。
負けじとソ連が初めて犬を打ち上げたのは1951年、そして1957年には地球軌道の周回にも成功(あの有名なライカ犬クドリャフカですね)、更に1960年には1ペアの犬を軌道周回させ、なおかつ生還させました。
1961年、軌道周回からの生還に成功した犬たちの子犬をソ連がアメリカの大統領にプレゼントしたこの年、宇宙開発はめまぐるしく動きます。
1月に初めて類人猿を打ち上げたのはアメリカ、4月に初めて人類を軌道周回させたのはソ連、5月にはアメリカが初めて有人飛行するも軌道にはまだ至らず、11月に類人猿での軌道周回に成功しました。
宇宙先進国の2トップがデッドヒートを繰り広げる陰で、ロケットを飛ばしていたのが今回の舞台、フランスです。
フランスも1920年代からロケット研究を進め、大戦後にはドイツのV2ロケット技術者を大勢迎え入れて宇宙開発に力を注いできました。
このデッドヒートの1961年、フランスはラットの弾道飛行に成功します。ソ連が人間を宇宙に送っている年にフランスはネズミ、というと何とも周回遅れのように感じますよね。
上記のようにフランスの宇宙開発はドイツ人技術者たちが主軸となっていたため、彼らの帰国によって全体的な経験不足が生じたり、ソ連やアメリカとは国がロケット開発に関わる状況が違っていたようです。
それでも独自の開発でラットを飛ばしました。よそは既に人間まで飛ばしているご時世、次はもっと大きな動物を、ということになりますよね。
そこで選ばれた次の宇宙飛行士が猫でした。
宇宙飛行をした唯一の猫フェリセット
フェリセットはフランスの航空宇宙医学の研究機関CERMA(Centre d’Enseignement et de Recherches de Medecine Aeronautiqueの略)によってサハラ砂漠のColombBacarロケット基地から宇宙へ飛んだ世界で初めての、そして唯一の猫です。
フェリセットはパリの路上に暮らしていた白黒タキシード模様の雌猫でした。
ペット業者に捕獲された後で政府が買い上げた説と政府関係者によって直接捕獲された説があり、はっきりしたことはわかっていませんが、ともかく彼女は他の13匹の猫と共に研究施設へ送られて宇宙飛行士になるための訓練を受けることになります。
まず、頭蓋に電極を埋め込まれます。それは消しゴムほどの大きさで猫の頭上、耳の間に留まっています。
猫たちは首から下がすっぽり納まる容器の中でじっとしていられることが求められました。圧縮機や遠心分離器にかけられ、人間の宇宙飛行士並みの訓練やテストが繰り返された結果、選ばれたのはトラ毛の雄猫フェリックスでした。
最初はフェリセットではなく、フェリックスという雄猫が宇宙に行くはずだったのです。このフェリックスが直前になってまさかの失踪、急遽代役として白羽の矢が立ったのがフェリセットでした。メンバー猫の中で最も体重が軽く、気性が落ち着いていた事が決め手だったようです。
猫たちの訓練やテストの様子から、ロケット発射、落下したカプセルからフェリックスが回収されるまでの様子を映した当時の映像が残されています。
それによるとガガーリンのように「さあ行こう」なんて前向きな姿勢は(当然ですが)ありません。平静な顔つきで大人しくしてはいますが「なにごとですか。色々いつもと違います」というように不安げな鳴き声を上げています。
フェリセットが込められたカプセルを宇宙へ運ぶのはヴェロニクAGI47、加速に伴う加重や無重力下で生物が受ける影響を研究するために開発されたロケットです。
1963年10月18日。発射されたロケットは音速6、換算すると秒速2kmというすさまじい速度で、地上の9.5倍の重力を受けながら大気圏を突破しました。
到達した高さは地上から157km、ここでロケットは分解してフェリセットのカプセルは宇宙に放り出されます。無重力の、そして無音の5分間。そして地球の重力に引き戻され、地上へとパラシュート落下しました。
フライト時間は15分間、発射から帰着までの間、フェリセットの脳に埋め込まれた電極は彼女の神経パルスを地球上の研究員のもとにずっと送り続けていました。
映像の中、カプセルから抱き上げられた直後のフェリセットは「なにがおきたかわからない」というような顔で短く小さく鳴いていますが、見てとれるような身体への影響はなかったようです。
地上へ戻ったフェリセットのその後
史上初の猫の宇宙飛行、そして生還はメディアを大いに賑わせました。
当初の報道でメディアがフェリセットにつけた呼称は「Astro Cat」。
最初の頃は「トラ猫の写真(フェリックス)」「白黒猫の写真(フェリセット)」「雄猫のフェリックス」「雌猫のフェリセット」が情報として入り乱れ「宇宙へ行ったのは雄猫のフェリックス」といった誤報も多く流れていました。
電極を埋め込まれた猫のビジュアルが動物愛護派からの批判を招くことを懸念して積極的な公開を控えたという説もあります。
こうした情報の錯綜が影響してか、1990年代にフランスの植民地であるコモロ諸島、ニジェール、チャドで順次発売された記念切手には長毛の白黒猫の絵柄にFelixの名前が印字されてしまいました。
フェリセットはフランスの宇宙開発に大きく貢献したとして国から勲章が授与されました。しかし、実験の目的は無重力空間を経た動物が脳や体に受ける影響を調べること。
彼女は研究施設で2ヶ月の観察期間を経たのち解剖して内部を調べるために安楽死の道を辿りました。
フェリセットの記念像プロジェクト
それにしても犬のライカやチンパンジーのハムに比べて、フェリセットはあまり知られていません。
ソ連のライカやアメリカのハムはその後、それぞれの国で有人飛行に繋がったことに比べ、フェリセットの後に続いてフランスのロケットから飛んだ宇宙飛行士はいない事も関係しているのかもしれません。
フランスは1967年に2匹のサルを宇宙に送ったのを最後に動物による宇宙実験をやめています。
ロンドン在住のクリエイティブクリエイターMatthew Serge Guyはある時、オフィスのキッチンタオルに印刷された猫(フェリセットの宇宙飛行から50年周年の節目に作られた記念品)に興味を持ちました。
改めて調べていくうちに、この宇宙猫があまりに知られていないこと、名前やプロフィールが間違って伝わっていることに驚きます。
ライカ犬はモスクワに彫像が建っています。チンパンジーのハムはニューメキシコ州のスペースホールに墓標があります。Guy氏はフェリセットも彼らと同様に望んでもいない宇宙旅行に行かなければならなかった動物の1匹として顕彰されるべきだと考えました。
Guy氏はアメリカの大手クラウドファンディングサイト”Kickstarter”でフェリセットの記念像を作るプロジェクトを始動、2017年の10月から11月の間に賛同した支援者は1,141人、£43,323(640万円ほど)が集まりました。
造形は動物彫刻家のGill Parkerに依頼され、1.5mのブロンズ製で直立したロケットの上に乗ったフェリセットのデザインが予定されています。
Guy氏はフェリセットの生まれ故郷、フランスのパリにこの像を置きたいと現在場所の選定中とのことです。2018年の秋、フェリセットの飛行から55周年となる時期を予定していましたがまだ続報は聞かれていません。しかし遠からず実現することが期待できるでしょう。
次に猫が宇宙へ行く時は人間のパートナーとして
フェリセットが宇宙へ行った頃、動物による宇宙実験は既に終焉期にありました。
最近では2013年、イランがペルシャ猫を打ち上げる実験予定を公表した際にはPETA(動物の倫理的な扱いを求める民間団体)から「動物実験は過去の技術への後退であり、人間に置き換えるためのデータとしては意味がない」と抗議を受けています。
※幸いなことにイランの猫実験には続報がなく、この実験は未遂に終わったものと考えられています。
NASAは飛行機を使った無重力空間を作り出す実験に猫を投入していますが、こちらの猫は笑顔の宇宙飛行士と一緒に”バター猫のパラドックス”さながらにくるくる回転していて、とても牧歌的な雰囲気が漂っています。
今や時代は「なんとかして宇宙に到達する」から「到達した宇宙で何をするか」に代わりつつあり、民間人でも宇宙へ行けるサービスが始まっています。
そこで実際に弾道飛行で宇宙観光に行った方にお話をうかがってきました。
フェリセットと到達高度に差はあれど、ほぼ同じような雰囲気で飛べるそうです。飛行中の体感としては「機体に守られていてもかかるGはすごい、外界の音は無いけれど機体内部の音はずっと聞こえている」。
もしフェリセットのカプセルが外を見られるようになっていたとしたら「真上に真っ暗な宇宙、地上で見ているのとは比べ物にならないほど大きな太陽、そして青くて丸い地球」が見えたのではないかという事でした。
人類がこうして宇宙へ行けるようになったのもフェリセットたち動物宇宙飛行士たちの、決して自主的にではない献身のおかげです。次に動物が宇宙へ行くことになるとすれば、それは人類が宇宙に生活圏を広げ始めた時、その伴侶としてではないでしょうか。
フェリセットにいたかもしれない兄弟たち、その遠い未来の子孫たちがいつか人類と一緒に火星に降り立つ日が来るかもしれませんね。
最後にフェリセットと共に訓練を受けていた猫たちのその後をお伝えします。CERMAはフェリセットの飛行から6日後にも猫を乗せた宇宙飛行を試みましたが、このロケットは上空11kmで爆発、乗っていた猫は名前が付けられないままに亡骸が回収されました。
当時の実験動物の慣例として、残った猫たちはフェリセットと同じ運命を辿ったものと思われますが、ただ1匹だけ、機械の不具合によって脳の電極を外された雌猫がいます。
実験動物ではなくなった彼女はScoubidouと名付けられ、研究施設の秘書猫として末永く可愛がられていたとのことです。